長野オリンピックボランティアの思い出


 

目次
序章 全ては、リレハンメルから始まった
第一章 オリンピックボランティアとして登録
第二章 悲惨だったリハーサル大会
第三章 大会までの1年間
第四章 自分たちのことは自分たちで
第五章 大会まであと2週間
第六章 過労でダウンした開会式当日
第七章 意外と暇だった大会期間
エピローグ 長野オリンピックを振り返って
第2部 シドニーオリンピックボランティア物語

 

〜序章〜 全ては、リレハンメルから始まった

「オリンピックボランティア」の存在を初めて知ったのは、1994年のリレハンメルオリンピックの時だった。
世界中の人たちを興奮の渦に巻き込み、子供たちに夢と希望を与える世界最大のスポーツの祭典オリンピック。華々しい表舞台で活躍する選手たちの影で、大会の運営を支えるボランティアスタッフは、近年巨大化するオリンピックの運営に欠かせない存在であることを知った。リレハンメルオリンピックでは、このボランティアたちの活躍のおかげで大会が大成功を収めたとIOCサマランチ会長に絶賛された。

この時、すでに次の開催が決まっていた長野オリンピックに、地元民として何らかの形で関わりたいと考えていた私が、ボランティアスタッフとして参加することを決意したのは、ごく自然なことだった。

〜第一章〜 オリンピックボランティアとして登録

リレハンメル大会が終わった1994年に長野五輪のボランティア募集が開始された。
この頃は、全くと言っていいほどオリンピックに対する世間の関心はなく、同じ県内である私の出身地、松本ですらほとんど動きがなかった。唯一、ホストシティである長野市だけが盛り上がっていた程度である。当時、オリンピックボランティアという存在など知らない人たちがほとんどだったに違いない。大会運営を統括する長野オリンピック組織委員会(NAOC)の職員たちでさえ、よく理解していなかったくらいだ。

また当時は、「ボランティア」という言葉自体に、「無償奉仕」や「自己犠牲」といったネガティブなイメージが強く、英語本来の「自発的に参加する」という意味合いが欠けていた。学校や企業などで、半強制的にやらされる奉仕作業は、本来の意味でのボランティア活動ではないのだ。自発的に参加することがまず大前提となる。私個人的には、ボランティア活動とは、金銭には変えられない貴重な経験やかけがえのない友を作ることができる自己実現の場であると考えている。しかも、オリンピックの運営に関わるということは、語学力や国際交流など得られる財産は計り知れない。少なくとも、生きている間には再び開催されることのないだろう地元のオリンピックに参加しただけでも一生の思い出になる。
「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉があるが、それは選手だけに当てはまるわけではない。ボランティアスタッフにも十分当てはまるのだ。

応募はまず、住所や年齢以外に、自分が持っている資格や英語力など個人情報を申込書に記入することから始まった。ようするに履歴書のようなものである。 あと、担当業務を第3希望まで選べるようになっていたのだが、ボランティアといっても、たくさんの業務があるらしくどれにしようか迷ってしまう。業務内容の簡単な説明は書いてあっても、実際どんな仕事をするのかなんて皆目見当もつかない。とりあえず、 会場案内や競技補助などおもしろそうな業務を選んでおいた。
また、長野市や白馬村など勤務するエリアを希望することができたのだが、競技会場までは選ぶことができなかった。人気競技に申し込みが殺到するのを避けるためだろう。

結局、長野五輪のボランティアには、地元長野県を中心に個人、団体合わせて約35000人の登録があった。大会運営に必要と言われる人員は確保できたことになる。しかし、団体登録の多くは、協力企業から派遣されてきた人たちである。

〜第二章〜 悲惨だったリハーサル大会

登録後は、長野県が行う月2回の英会話教室に参加したり、オリンピックやボランティアに関する一般的な事を学ぶオリエンテーションが行われたこと以外に大きな活動はなかった。ボランティアとして本格的に活動を始めたのは、大会一年前に行われたプレオリンピック、つまりリハーサルを兼ねた国際大会に参加した時だった。

当時、仮配置として決定していたのは、白馬村のクロスカントリー会場「スノーハープ」。白馬会場は当初希望していた通りの配置である。しかしながら、小さい頃からアルペンスキーに慣れ親しんでいた私にとって、担当競技となるクロスカントリースキーは経験したことのない未知のスポーツでもあった。
この仮配置を元に、リハーサルを兼ねた前大会「FISクロスカントリーワールドカップ白馬大会」に参加することになった。

大会1週間前に行われた研修で担当業務が知らされたのだが、私の仕事は「報道部インフォメーション班長」となっていた。会場内に設置されるプレスセンターで、取材に来る報道関係者に競技結果や各種資料の掲示、配布をするチームを統括する仕事だった。クロスカントリー自体よく知らないというのに、プロの人たちを相手に果たして円滑な情報提供ができるだろうか? しかも、責任を持たされる班長というポジションである。
全く知らないことばかりで不安も大きかったが、それ以上に「これはおもしろそうだ」と思った。 せっかく世紀のスポーツイベントの運営に関わるのだから、やりがいのある仕事がしたいと考えていたからだ。しかも、普段の生活では接することのない報道関係の仕事である。不安な反面、いったいどんなことが待ち受けているのか楽しみになっていた。

そして、プレ大会当日。
大会一年前のシーズンでは最初に行われた「FISクロスカントリーワールドカップ白馬大会」。私を含め、ほとんどのボランティアとNAOC職員たちにとって初めての経験ばかりだった。マニュアルもノウハウもまだ手探りの状態だったのである。
準備開始から一週間、自分たちで考え行動するという試行錯誤の日々が続いた。ボランティアたちだけでなく、NAOC職員も慣れていない状況だったのだ。私も班長という責任もあり、夜10時近くまで仕事をした日もあった。もちろん自主的にではあるが、そこまでしないと準備が間に合わなかったのである。白馬村の凍てつくような寒さの中で走り回ることも多い上、業務内容が神経を使う仕事だったため、頻繁にかかってくる電話と扱う書類の多さに、だんだん胃が痛くなってくるのを感じた。
想像以上に大変な仕事だったが、幸い周囲のボランティア仲間や競技関係者の方が手助けしてくれたおかげで、何とか任務をまっとうすることができた。お互いの立場を理解し合い、時間が空いたときには忙しい部署を手伝うなど柔軟に対応することで、大きな混乱もなく大会を終えることができた。報道関係者の評判も結構良かったようだ。

その反面、大会運営の中核であるはずのNAOCの対応の悪さが目立った。例えば、始めのうちは、ボランティア用シャトルバスも用意されていないほどで、寒い中、みんな遠くから歩いて通わなければならない状態だった。 果たして、こんなことで長野オリンピックを成功させることができるのか? この大会を通じて、多くのボランティアがそう思ったに違いない。

NAOCへの不信感を抱きながら、2回目のプレ大会となる「FISワールドカップノルディック複合白馬大会」に参加した。自分自身、クロスカントリー大会の反省点を少しでも生かそうと思ったからである。

この時の事前研修はものすごかった。
質疑応答の際、私と同じようにクロカン大会で辛い思いをしたボランティアたちから、運営に関する不満や改善すべき点が次々と出されたのである。ただ資料を渡して一方的に研修を進め、ボランティアの意見を反映しようとしないNAOC側の姿勢に憤りを感じたのだろう。私も迷うことなく、報道支援業務の問題点について発言した。

結局私は、クロカン大会での経験が買われたのか、前回と同じ報道インフォメーション班長に抜擢された。この大会の上司となった報道部長のK氏は、我々ボランティアの細かな要望に耳を傾けてくれて、忙しいにもかかわらず、必要となるものを全て用意してくれた。後で分かったことだが、彼はのちに長野オリンピックのクロスカントリー会場ベニューマネージャー(会場責任者)になる人であった。

このような出会いもあり、クロカン大会でのNAOCへの不信感も少しずつ薄らいでいき、「ノルディック複合プレ大会」は、準備の遅れや人員不足、過密なスケジュールにもかかわらず、予想よりスムーズに業務を遂行することができた。大会がうまく進んだ背景には、多くのスタッフが前回の経験とノウハウを生かせたことが大きい。私も毎晩遅くまで仕事をせずに済んだし、胃を痛くすることもなかった。

この後、各競技で行われたプレ大会も、 それまでの大会のノウハウを蓄積し活用することで、おおむね順調に運営できたと聞いている。 私にとって、この2つの前大会を通じて、信頼できる多くのボランティアやNAOCの人たちと出会えたことが、オリンピックボランティアに対するより大きな情熱と責任感が生まれるきっかけとなった。

〜第三章〜 大会までの1年間

プレ大会が終わりオリンピックまでの一年の間に、ボランティア同士のネットワークはしだいに広がっていった。

プレ大会から数ヶ月後のある日、前大会で一緒だった仲間に誘われて、東京で活動するオリンピックボランティアグループ「BIND-AID」が主催する五輪施設見学会に参加したことがあった。そこで、何人か懐かしい顔ぶれに再会した。プレ大会で同じ宿になり、オリンピックに対する熱い思いを語り合った仲間たちだ。
このグループのメンバーは、皆それぞれオリンピックボランティアに対する特別な思いを持っていて、心から長野五輪を成功させたいと願う人たちが集まり、自発的に活動を続けていた。そのほとんどが、県外在住者である。私は、この事実に強いショックを受けた。地元以外で、これほど真剣に長野オリンピックの成功を考え、実際に活動している人たちがいるなんて想像もしていなかったからだ。 彼らとの出会いで、自分自身とても励まされたし、大会への意欲がよりいっそう高まっていった。

大会5ヶ月前の1997年9月、ようやくオリンピック期間中の正式な配置先が決まった。
予想していた通り「クロスカントリー会場報道部」だった。ただ、今回は報道案内班長ということで、プレ大会の業務内容とは少し異なるが、報道関係者に情報提供するという点でそれほど変わりない。
この通知を受けた時、私は2度のプレ大会の業務経験が評価されて選ばれたのだと思っていた。ところが、驚いたことに他のメンバーを見ると、一人を除いてみな違う顔ぶれだった。そのほとんどがプレ大会を経験してないか、他部署を担当していた人たちだったのである実は、 前大会で一緒に苦労してきた仲間たちは、他部署か他会場に配置されてしまった。こともあろうに、前大会を2回一緒にがんばってきた主婦のMさんさえも外されてしまったのである。
そんなバカな! なぜ、経験者を外してしまうのだ。目の前の事実が、私にはただ信じられなかった。

配置したボランティア課によれば、各自の参加期間や語学力などを考慮して決定したとのこと。中には、プレ大会でつらい思いをして、ボランティアを辞退してしまった人もいたらしい。
それでは、いったい何のための前大会だったのだろう? ボランティアにリハーサルとして国際大会を経験してもらい、本大会につなげるためではなかったのか?
結局、すべてが振り出しに戻ってしまった。新しいメンバーで一から始めなければならない。NAOCへの不信感が再びよみがえるのを感じた。 「こうなったら、自分たちで何とかしなければならない。」この時そう思った。

とりあえず、NAOCに電話してクロカン会場の報道部長であるY氏にこの件について聞いてみた。すると、ボランティアの配置については、全てボランティア課が担当しているため、各部署では調整が難しいとのことだった。 しかし、それでもなんとかお願いして、経験者のMさんだけ報道部に配置変えしてもらえることができた。心強い味方の復活である。

円滑な報道支援業務を行うには、効率的な人員配置が欠かせない。そこで、まず最初に報道部内の人事を決めることから始めた。 部内の配置に関しては、報道部長であるY氏に決定権があったので、プレ大会の経験者として私も参加させてもらうことになったのだ。

「報道部」には、「報道係」と「フォト係」の二つの部門があり、さらに「庶務班」「報道案内班」「取材調整班」、そして「フォト班」の4つの班に分かれていた。 「報道部長」がNAOCのY氏で、係長2人と「取材調整班長」は自治体からの出向職員が担当する。問題なのは、私が受け持つ「報道案内班」以外の班長2名を、ボランティアから選出しなければならないことだった。 まず、前大会の経験者であるMさんにお願いしたが、主婦との両立が難しいということで断られてしまった。お互いボランティアである以上、強制はできないので仕方ない。しかし、まだ会ったこともない人を名簿上のデータだけで班長に指名するのは、非常に困難なことだった。
結局、長期間参加できる方になんとかお願いして2人の班長を決定し、事前研修に望むことになった。

〜第四章〜 自分たちのことは自分たちで

クロスカントリー会場の報道部としての専門研修は、2回しかなかった。たったの2回である。
この2回でメンバー全員に業務に必要な知識を吸収してもらい、万全の体制でオリンピックに臨まなければならない。なにしろ、この報道部では、メンバーのほとんどが未経験者なのである。

そこで、私は次の2つのアイディアを実行することにした。
まず一つは、ボランティア一人ひとりの現在の状況(参加可能期間や語学力)を把握するためのアンケートを記入してもらうことだった。3年前の登録時と現在とでは、それぞれの環境が変化しているのは当然のことで、各人の班内の担当業務を決める際にメンバーの最新データが必要だったからだ。
ふたつ目は、各班員の顔写真の撮影をしたことである。これをもとに写真入りの名簿を作ることによって、本番までにお互いの顔と名前を覚えてもらい、ボランティア同士のコミュニケーションをよくするというのが狙いである。 この二つの試みのおかげて、報道部内の配置作業がかなりはかどっていった。

さて、私が班長を務める「報道案内班」は、メディア関係者に大会情報、競技情報、記者会見の予定など、マスコミが必要とするあらゆる情報を収集、管理、提供する重要な仕事である。 しかも、全ての情報を日本語と英語(時にはフランス語)で提供しなければならない。
構成メンバーは16名。報道部の中で2番目に大きな班だ。顔ぶれを見ると、比較的若い年齢層だが個性的なメンバーが揃っている。例えば、副班長をお願いしたHさんは、アメリカでの生活が長く英語も流暢で、アトランタ五輪でもボランティアを経験したというベテラン。迷わず私と共に班をまとめる副班長のポジションをお願いした。また、プレ大会で同じ宿だったSさんは、会社を辞めてまでボランティアに参加したという情熱の持ち主で、長野にかける気持ちは人一倍強かった。

私は、顔合わせをする研修の前から積極的にメンバーと連絡を取るようにしていた。「みんな 最初は不安に違いない。」私自身プレ大会でそう感じていたからだ。 実際、NAOCからボランティアへの情報提供はかなり少なかった。NAOCも忙しくてそこまでする余裕がなかったのも知っているので、まずボランティア同士で連絡を取り合い、お互いの信頼関係を高めることが、グループの結束につながると思ったのである。

しかしそんな中でも、第一回研修直前になって、2人のボランティアが辞めてしまった。しかも、長期間の参加予定で、しかも語学が堪能な人たちだった。この時期に来て有能な人材が減ってしまうのは、業務自体に支障をきたすし、残ったメンバーの負担が増えてしまう。かといって、参加できなくなった人たちを無理矢理引き止めるわけにはいかない。私たちはボランティアであって、大会運営に対する自覚と責任は求められても、それを強制することは誰にもできないのだから。

私は、Y部長にかけあって案内班員の補充を求めたが、そこで、この問題が想像以上に深刻であることを知らされた。報道部のみならず、他部署や他会場など各方面で同じような問題が起きていたのである。 正式な配置先は決まったものの、業務内容に不満があったり、個人的な事情により、参加を辞退してしまうボランティアが続出したのだ。
もちろん、皆それぞれボランティア登録した時と現在とでは、環境が変わって参加が不可能になる場合もある。 しかし、それならなぜもっと早く辞退しなかったのか? NAOCにいろんな文句や要求する反面、何の責任もなく辞めてしまうボランティアの現実に、ボランティアの一人として複雑な気持ちになった。それに振り回されているNAOCの人たちに申し訳なく思った。

〜第五章〜 大会まであと2週間

開会式14日前の1月24日、オリンピックボランティアとしての本格的な業務を開始するため白馬入りする。松本から通うのは大変なので、親戚が住んでいる大町市から車で片道30分かけて通うことになった。

まずは、大会前日にオープンするクロスカントリー会場のプレスセンター(SPC)の立ち上げ準備から始める。 電話や机などの器材や備品はそろっているが、実際に仕事ができるように細かいセッティングが必要だ。
プレスセンター内に案内班の仕事場は2個所あった。一階にある事務室と二階の共用ワーキングルームの一角にあるインフォメーションカウンターである。しかし、この時、案内班で現地入りしていたのは、私たったひとりだけ。 他のメンバーが来始めるまでの5日間は、一人で準備しなければならない。実にさみしいスタートだ。でも、そんな感傷に浸っている余裕がないほど、目の前にやるべき仕事が山ほどあった。

まず、机の配置を決めたり備品の整理から始める。そして、300席に及ぶ共用ワーキングルーム(報道関係者が仕事をするエリア)内に、英語と日本語で案内する張り紙を作成したり、大量の書類を分類するためのファイルを整理したりする。 しかし、こうした作業をしている間もマスコミから様々な問い合わせの電話があるため、その都度対応しなければならず、実質的な準備はいっこうに進まない状態だった。少なくとも、SPCがオープンするまでは、報道関係者への対応業務はないと考えていただけに、スタート当初から忙しくなってしまった。

1月28日、待ちに待った副班長のHさんが白馬入りする。この時は、さすがにうれしかった。あまりの忙しさで、外国人報道関係者向けの翻訳や通訳業務の準備がほとんど手につかない状態だったからだ。 さっそく、Hさんには、英語を使った仕事を始めてもらう。

1月31日、初めての休日。 ボランティアは基本的に週休2日なのだが、メンバーの勤務日程は班長である私が決めていたため、自分自身はあまり休みを取れずにいた。
この日は業務に必要な情報収集をするため、ジャンプ会場の案内班長であるTさんと共に、休みを兼ねて長野市にあるメインプレスセンター(MPC)を訪れた。Tさんとは大会前から、互いの会場の準備状況や案内業務について情報交換をしていた仲だ。

MPCに入場する時にまず驚いたのは、金属探知機で危険物のチェックをしていたことだ。SPCでは考えられない警備である。まず、入場するための許可証を発行してもらい、荷物を預けてゲートをくぐる。しかし、ブザーが鳴った。携帯電話や上着など預けて試してもるが、また鳴ってしまった。何度かチェックした後、ようやく入ることができたのだが、想像以上に厳重な警備で驚いてしまった。それぐらい、メインプレスセンターではテロ対策に力を入れているのだろう。

前に一度、MPCに見学に来たことはあったが、今回はかなり雰囲気が違っていた。まだ準備中のSPCとは違い、全てがすでに稼動していたからだ。 しかも、毎日24時間休むことがない。SPCとは、比べものにならないほど多くの人が忙しく動いていた。
そのおかげで、我々にとっては参考になることが多かった。各SPCでも、MPCと同じサービスができるように、各掲示板の見出しの書き方や配置方法、インフォメーションカウンターの動きなどを、一つひとつチェックする。MPCとSPCで対応方法が違ってしまうと、両方の施設を行き来する報道関係者に混乱が生じる原因になりかねないからだ。
この休日を利用したMPC視察は、その後のSPC運営に大いに役に立ったことはいうまでもない。

一方、クロスカントリー会場のSPCでは、マスコミからの問い合わせが日に日に増えていった。選手を始め、大会関係者やボランティアへの取材申し込みは、一日5件を超えることも珍しくなかった。

大会6日前の2月1日、TV局の生中継がスノーハープで行われたことがあった。
元ノルディック複合金メダリストで、選手村副村長である河野孝典さんがゲストとして出演する番組だ。私はこの中継に向け、一週間前から番組スタッフと打ち合わせをしていた。もちろん専門過ぎて分からないことも多く、 不手際もあったかも知れないが、普段の生活では見ることのないTVの裏側に直接関わることができたことは貴重な経験だった。

2月2日、クロスカントリー会場の競技リハーサルが始まった。
もちろんSPCでも、リハーサルに合わせて着々と準備が進んでいるはずだった。しかし、オープン4日前だというのに、現地入りしている案内班のメンバーはたった3人だけ。しかも私とHさんはマスコミからの取材対応に忙しく、その他の準備がいっこうに進んでいない状態だった。 正直、この時点でここまで忙しくなるとは予想しておらず、とにかくみんなに早く来て欲しいだけだった。

開会式前日の2月6日、いよいよSPCオープンである。
入り口にかかっている「Closed」の看板を裏返して、「Open」にする。果たしてどれくらいの人が来るのだろうか? かなり期待していたのだが、競技がないということもありほとんど人は集まらなかった。かなり気合が入っていただけに、ちょっと拍子抜けだ。 しかし、すぐにこの静けさも喧騒の戦場に様変わりすることだろう。

案内班のメンバーも8人に増え、これでようやく本格的な業務を始めることができる。 ただ、私とHさんはあいかわらずマスコミ対応に忙しくて、一人ひとりに細かく仕事のやり方を教えてあげられる状態ではなかった。昼食もゆっくり食べている時間がないくらい忙しいのだ。
みんなには、実際に仕事をしながら体で覚えていってもらうしかないが、すでに忙しく動いている現場の雰囲気に圧倒されしまい、仕事がうまく進まない場面も多かった。 全てが初めての経験なのだから仕方のないことだが、私自身かなり忙しい状態にいたので、一人ひとりに親切に教えてあげることができないのが辛かった。 そういう時は、「もっと早くから来てくれていれば・・」と思うのだが、皆それぞれ自分の貴重な時間を裂いてボランティアに参加してきてくれているのだから、今はとにかくがんばってもらうしかない。

そしてついに明日、開会式となった。
ちょっと前まで、長野オリンピックなんてまだまだ先のことだと感じていたのに、いつの間にかこの日がやってきてしまった。もう後戻りするわけにはいかない。やるしかないのだ。 しかし、この記念すべき開会式が、私にとって最悪の日になろうとは思ってもいなかった。

〜第六章〜 過労でダウンした開会式当日

開会式当日。
朝のミーティングで係長から「最近みんなかなり疲れてきているから、早く帰るように!」と、念を押されていた。確かにこれまで、朝6時頃から夜10時や11時頃まで仕事をしていたこともあり、準備から関わってきた報道部の中心スタッフはみんな疲労の限界にきていた。当の係長さえ、ほとんど寝ていない状態だったのだ。私もHさんも、昼食の弁当を食べている時間もないほど忙しく動き回っていた。

特にこの日は、明日から始まる競技に向けて処理するべき問題がたくさんあり、そのほとんどに関わっていた私は、頭の中がパンク寸前だった。そのためか、食欲もほとんどなく体がだるくて熱っぽい状態が続いていた。
開会式が始まり、SPCのモニターで見ていたのだが、内容も覚えていないほど思考能力が衰えていた。打ち合わせなど、やらねばならないことはたくさんあったが、さすがにこれではだめだと感じて、運営本部の休憩室で少し休むことにした。
仲間の一人が付き添ってくれて、布団を敷いてもらい横になる。医務室から体温計を借りてきてもらい計ると39度もあった。夕方までしばらく寝ていたが、いっこうに熱が下がらず起き上がることも困難だったため、ついに病院へ行くことになってしまった。

ただ、ここで私が抜けてしまったら、案内業務は果たしてうまく稼動するのだろうか?明日から競技が始まるのだ。よりによって、なぜこんな大事な時に倒れなくちゃならないのか。
仲間が病院に連絡を取り、車の手配をして付き添ってくれた。みんな忙しいのにである。 係長が運転する車の後部座席で揺られながら、うつろな意識の中で、自分の不甲斐なさに対する悔しさと、みんなの優しさに感激して涙がこぼれた。
病院では、インフルエンザとの診断。どうやら、クロカン会場内で流行っているようだ。他に何人か関係者が待合室に座っていたのを覚えている。点滴を打ち薬をもらい、再び宿まで送ってもらう。起き上がれないほど、とにかく休養が必要な状態だった。 結局、3日間ほど安静にしていなければならなくなった。

これまでに、相当疲れが溜まっていたらしく、ほとんど起き上がることができず、ずっと宿で寝ていた。ここで無理をして出ていっても、みんなに余計な気を使わせてしまうだけだし、風邪をうつしてもいけない。とりあえず体調が良くなるまでは、安静にしているほかなかった。
この間、同室のKさんが看病してくれたり、副班長のHさんが仕事の合間に差し入れをしてくれたり、宿のおかみさんまで毎日おかゆを作ってくれて、周囲の人たちのありがたさを身にしみて感じた。なぜ、みんなこんなに親切なのだろう? ボランティアは決して一人でできるものではなく、周りの人たちの助けがあるからこそ思う存分取り組むことができるのだと気づいた時、今まで肩に入っていた力がふっと抜けたような感じがした。

倒れてから3日後の2月10日、ようやく動く元気が出てきた。
となると、やはりプレスセンターの様子が気になってくる。正直、みんなうまくやれているかが心配だった。 病院からもらった抗生物質の副作用で頭がボーッとするが、熱は下がっていたのでとにかくプレスセンターに行ってみることにした。

プレスセンターに着くとみんな心配した様子で、体調を気づかってくれた。ありがたい。
問題の案内班はというと、みんなてきぱきと仕事をこなしており、Hさんを中心に素晴らしくまとまっていた。「私がいない方が、うまくやっていけるんじゃないか」正直そう感じたほどた。みんな、班長の復帰を快く受け入れてくれたが、なんとなくさみしいものを感じた。

しかし、この3日間の様子を聞くと大変だったようだ。全てを把握している私がいなくなったことで、案内班はパニック状態に陥り、最初のうちは右往左往していたらしい。 しかし、2、3日と経験を積むうちに、みんなで協力してうまくやれるようになっていったという。
また、今まで頼っていた班長が急に倒れたことで、逆に一人ひとりの業務に対するやる気と責任感が生まれて、副班長のHさんを中心に班の結束が固まっていったようだ。結果的には、よい方向に向かったのである。やはり、苦労を分かち合う仲間がいるからこそ、辛い仕事も楽しくがんばることができるのだ。

〜第七章〜 意外と暇だった大会期間

その後の案内班の活躍ぶりは、素晴らしかった。
窓口案内も各種情報の掲示も、みんなそれぞれ自分で考え手際よく行動していた。メディアからの質問にも、ほとんど応対してくれていたので、私はただ現場監督のように座っていればよかった。

また、これまで報道関係者から殺到していた選手や大会関係者への取材の申し込みも、 うそのようになくなってしまった。どうやら競技が始まると、選手のインタビューや記者会見に集中するようだ。 いずれにしても、みんなが仕事に慣れてくれたことと取材の申し込みが減ったことで、私のやる仕事はほとんどなくなってしまった。開会式以前のあの忙しさが嘘のように感じられた。

大会期間中、他の競技会場では日本人のメダル獲得が大きくクローズアップされたが、クロスカントリーも男子団体の入賞や複合荻原兄弟の活躍など、話題には決して負けてはいなかった。アスリートを間近で見られるという点でも、観客の評判はよかった。
そして、クロスカントリー会場は、大きなトラブルもなく順調に日程を消化していった。

ボランティア活動は、決して辛いことばかりではなかった。
楽しかった思い出の一つに、閉会式のリハーサルをみんなで見に行ったことがる。それは、NAOCからボランティアへ感謝の気持ちを込めたプレゼントでもあった。
各会場から勤務の終わったボランティアが集まり、タレントの欽ちゃんが司会をする本番さながらの閉会式リハーサルをみんなで楽しんだ。その頃、すでに意気投合していたクロカン仲間は、聖火の前で一緒に記念撮影したり、みんなにウエーブを呼びかけて大きな波を作って盛り上げたりして、今までのストレスを吹き飛ばすかのように大いにはしゃいだ。

そして、閉会式当日。ついに、長野で開かれた世紀の祭典も幕を閉じる時がやってきた。
クロスカントリー会場は最終日も競技があったため、最後の業務を終えた後、クロカン会場のスタッフ全員で打ち上げパーティーを開いた。
打ち上げ会場は、オリンピックを成功させたという達成感と充実感に満ち溢れ、感動のクライマックスを迎えようとしていた。閉会式をみんなでTVで見ながら、テーマ曲「WAになっておどろう」に合わせて共に踊った。みんな、素晴らしい笑顔だ。NAOC職員もボランティアも一切関係なく、みんなが一つになった瞬間だった。

こうして、私の3年間におよぶオリンピックボランティアの活動が幕を閉じた。
しかし同時に、これは私の新たなボランティア物語の始まりでもあった。

〜プロローグ〜 長野オリンピックを振り返って

長野オリンピックが大成功したといわれるのは、日本人選手の活躍や天候など、いろんな好条件が重なったからだろう。
しかし、ボランティアをはじめとする大会を支えた関係者の一人ひとりが、それぞれの力を出し切り協力し合うことで、それが大きな輪となり大会を成功に導いたのだと私は信じている。閉会式で、リレハンメルオリンピックと同じように、サマランチ会長からボランティアスタッフを絶賛するメッセージが送られたこともそれを裏付けている。

私自身、オリンピックを通じて大きな自信と誇りが生まれたし、そしてなにより心から尊敬し合える仲間ができた。これは、何事にも代えることのできない一生の財産である。 この経験がなかったら、2年後のシドニーオリンピックに再びボランティアとして挑戦しようなど考えもしなかっただろう。長野五輪の記憶は、確実に私の心に残り続けるに違いない。

最後に長野オリンピックボランティアに参加するにあたり、支援、協力してくださった全ての方々に、感謝の言葉を送りたいと思います。

「ありがとう!みんな。ありがとう!長野オリンピック」

「オリンピックボランティア物語〜シドニー編〜」へつづく

 

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