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ボランティア申込書を提出してから数ヶ月後の1999年3月、ワーキングホリデービザを取得し、
1年間のオーストラリア生活を開始する。
以前、旅行で訪れ知り合いがいたこ ともあり、最初の3ヶ月間は西オーストラリア州のパースを拠点に生活をしていた。申込書を提出した後、面接の連絡を受けることになっていたのだが、組織委員会からは何の連絡もなく、不安は募るばかりだった。実際、ボランティアに登録されているかどうかさえも分らない状態だったのである。
また、オーストラリア国内といえども、シドニーから遠く離れたパースではオリンピックに関する情報は極めて乏しく、地元の人たちさえ、2000年のオリンピックはまるで別の国で行われるようなイメージを持っていたぐらいだ。考えてみれば、長野五輪の時も、大会が始まるまでは地元と県外では盛り上がりにかなり温度差があった。日本の面積の22倍もある広大なオーストラリア大陸なのだから、それも仕方のないこ
とかも知れない。でも、きっと大会が始まれば、オーストラリア大陸全体が興奮の渦に包まれることだろう。それほどオージーは、スポーツが大好きなのである。
このまま西オーストラリアにいてもだめだという危機感が募り、予定を早く繰り上げて、6月にシドニーに移動することに決めた。

シドニーに到着すると、さっそくSOCOGの本部を訪ねてみる。「Sydney
2000」と書かれた正面玄関を入るとエレベーターの前に、まるで駅の自動改札のような機械がずらっと並んでいる。アクセスカードを所持している関係者以外は、そこから一歩も入ることができないのだ。NAOCでもカードキーを使った入室制限は行われていたが、これほど厳重ではなかった。改めて、夏のオリンピックのすごさを感じる。
自動改札の手前にある総合受付に行き、事情を説明する。そして、プレスオペレーションのボランティア担当者を呼び出してもらい、直接話をする機会を得ることができた。
突然現れた日本人の若者に相手は驚きを隠せない様子だったが、長野オリンピックで経験したこと、そして遥々日本からボランティアをするためにやってきたことを精一杯の英語で説明する。そして、一向に面接の連絡がないため、心配して直接オフィスを訪ねて来たことを伝えると、「面接は8月から始まるので、もうしばらく待って欲しい。」という返事を得ることができた。とりあえず、動きはあるようだ。
オーストラリアでは、人々のボランティア活動に対する関心が高く、シドニーオリンピックのボランティア募集にも、予想を上回る多数の申込みがあったと聞いていた。しかし、それを統括管理する組織委員会の対応がこんなに遅くて大丈夫なのだろうかという不安を感じた。長野オリンピックの時も、組織委員会側とボランティアの間のコミュニケーション不足が指摘され、みんな不満を感じていたというのに、もっと大規模な夏のオリンピックであるシドニー大会の準備状況が、こんなにのんびりしたペースで進んでいることに苛立ちを感じた。少なくとも長野の時は、大会1年前にはボランティアの配置先が仮決定し、各種目でリハーサルを兼ねた国際大会に参加して経験を積むようになっていたのに・・・
ますます不安は募るばかりだったが、実際にSOCOGに足を運んだことで、 ボランティア登録のプロセスが少しずつではあるが確実に進んでいることが分っ
ただけでも収穫はあった。
翌月、聞いていた通り、プレスオペレーションのボランティア担当者から面接の日程を知らせる電話があった。
SOCOG本部で行われた面接では、プレスオペレー ションのボランティアコーディネーターであるオーストラリア人女性が応対してくれた。シドニーオリンピックのボランティア募集に関して長野と大きく違うことは、
各部署ごとにボランティア専門の担当者が存在しており、申込者一人ひとりに直接面会してインタビューを行ったという点である。
4万人ともいわれるボランティア募集枠に対して、果たして何人から申し込みがあったか定かでないが、それを一人ずつ面接する労力は並大抵のものではないだろう。面接してくれた女性は目の下に大きなクモを作っていて、その顔を見ただけでもいかに大変な作業かが想像できた。
面接では、身元を証明するためのID確認を始め、日本で提出していた申込書の内容を元に、実際、本人にどのような能力や経験があるかなどが質問された。私の場合、NAOCからもらった推薦状を添付していた
こともあって、長野オリンピックでの活動を中心に説明して、オリンピックの報道支援業務に関する知識と経験があることをアピールした。私の英会話力は決して自慢できるレベルではなかったが、それをカバーするように、できるだけ話題を長野オリンピックに絞って、自分のペースで話すように心がけた。SOCOG職員のほとんどがオリンピックの仕事は初めてだろうし、ボランティアといえどもオリンピック経験者が話すことなのだから説得力があるのは当然である。私の英語がどこまで相手に通じたか正直分らないが、
それ以上に、オリンピックに対する熱意とやる気を見せたことによって、好印象を与えること ができたと感じた。

面接で大きな手応えを感じ結果を心待ちにしていたのだが、しばらく経っても何の連絡もなく、あっという間に4ヶ月が過ぎてしまった。
最初のうちは落ちてしまったんじゃないかと不安でしかたなかったが、オーストラリア生活もすでに慣れ、この国特有ののんびりとした国民性を理解してきた頃だったので、
SOCOGの対応が遅いこともなんだか納得できるようになっていた。こちらに住み始めたらこちらのペースに慣れるしかないのだ。広大な大陸を流れるゆったりとしたテンポが、オー
ストラリアそのものなのだから。
面接から4ヶ月経った1999年12月、一通の封筒がSOCOGから届いた。ついに、プレスオペレーションのスペシャリストボランティアとして正式に採用が決まったのだ。
待ちに待ったこの瞬間。申込書を提出してから実に1年がかりでようやく手にした最高の知らせだ。長い戦いを勝ち抜いてやっとの思いでオリン
ピック出場権を手に入れたアスリートのような気持ちを少し味わったような気がする。
そして、 ボランティア登録と同時に、大会中の配置先がオリンピックパークにあるメインプレスセンター(MPC) に決まった。私が当初から希望していた通りの配置先だ。
MPCは、世界中から集まる約1万千人のメディア関係者が仕事をする施設で、オリンピック報道の中枢ともいえる施設だ。各会場に設置されるサブプレスセンター(SPC)を統括する場所でもある。会社に例えるなら、SPCが支店で、MPCは本店ということになる。警察で言えば、
所轄と本庁といったところだろうか・・・。いずれにしても、オリンピックに関するあらゆる情報が集中する場所であり、ここからニュースが世界各地に配信されることになる。それゆえ、MPCは大会中24時間眠ることなく稼動し続け、入り口では厳重なセキュリティーチェックが施される。長野オリンピックのMPCでは、空港に置いてあるような金属探知機を使って危険物の持ち込みチェックしていたのをよく覚えている。それだけ、重要な施設なのである。
このMPC内でどのような業務に就くかまではまだ分らないが、おそらく日本から取材に来る報道関係者へ大会に関する情報を提供する仕事になることだろう。そうでなければ、日本人を採用する意味がないからだ。各競技はもとより、大会に関するあらゆる情報を収集管理し、プロのメディ
アの人たちへ提供するわけだから、正確さと迅速さが要求される。責任は大きいし大変な仕事だが、十分過ぎるほどやりがいのある仕事といえる。せっかくボランティアをやるためにシドニーまで来たのだから、やりがいは大きい方がいい。

シドニーハーバー上空を無数に打ち上がる色とりどりの花火を眺めながら、記念すべき西暦2000年の瞬間を迎える。ついにオリンピックイヤーが幕を明けた。
この歴史的な瞬間を真夏のシドニーで迎えること自体、夢のような話だが、今年はもう一つ、これをはるかに超える大きな感動をシドニーオリンピックで味わうことなる。この2000年という年が、自分の人生の中で大きなターニングポイントになることは間違いないだろう。
年が明けてしばらくして、面接を担当したプレスオペレーションのボランティ アコーディネーターからEメールが届いた。メールには、今後の予定などが載ったボランティア向けのニュースレターが添付されていて、これからは担当者と直接コンタクトが取れるようになった。これで、何か困ったことがあればいつでも質問できるようになった。
連絡が全くなかった頃に比べたら驚くほどの進展であり、言い返せば、 これでようやく私もプレスオペレーションのスタッフの一員として認められたことになる。今まで霧がかかっていたオリンピックまでの道が、だんだん晴れてきたように感じた。
この頃、私のオーストラリア生活もいつの間にか1年が経とうとしていた。今持っているワーキングホリデービザの有効期限が切れるため、3月に日本に帰国することになった。再び戻ってくるまでの間、友人の家に荷物を預かってもらい、日本で働きながら再渡航に向けた準備を進めることになる。
そして3月10日、1年ぶりに帰国。
久しぶりの日本は、まだ寒さが残っていて、温暖なオーストラリアの気候に慣れてしまった体にはかなりきつかったが、1年ぶりの母国はあらゆるものが新鮮に感じられた。しかし、
6月からシドニーでボランティア研修が始まるため、あまりのんびりしていられないのが現実だった。何しろ、オリンピックまであと半年を切っているのだ。
1年がかりでようやくつかんだシドニーオリンピックへの切符。ボランティアと言えども、オリンピックに参加するという気持ちは選手にも決して負けてはいない。
しかし、実際海外でボランティアとしてオリンピック運営に関わるには、時間やお金など支払わなければならない代償は少なくない。ただ、それ以上に得られる財産は大きく、オリンピックは自分自身をひと回りもふた回りも大きく育ててくれる大きなチャンスであることを私は知っている。そのチャンスを生かすも殺すも全て自分次第なのだ。
シドニーオリンピックへのカウントダウンはすでに始まった。もう後戻りはできない。とにかく前に進むしかないのだ。オリンピックを成功させるために・・・そして何より、自分自身のために・・・。
〜第2章につづく〜
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